一
哲学を学び始めるにあたって、人生の問題や実践的な動機から出発する場合はしばらく置いておき、理論的な関心から出発する場合について考えると、大きく二つの方向に分けられるように思われます。一つは科学的研究との関係から、もう一つは哲学史の研究から入る方法です。科学との関係にもまた二つの違いがあります。一つは、ある科学の原理をそのまま広げて哲学の原理にしたり、それを手がかりにして哲学的な原理を組み立てようとする、いわば科学から直接哲学に移ろうとするもの。もう一つは、そういった原理を立てようとはせず、科学そのものの性質を吟味して、その基盤を明らかにしようとする態度です。19世紀の中ごろ、ドイツの大きな哲学体系が崩壊したあとの時代に栄えた哲学は、前者のような科学的哲学に分類されますが、その後、次第に科学そのものの根拠を見直す必要が出てきたことで、だんだんと後者の「科学の批判」としての哲学に移行していったように見えます。この後者の立場は、新カント派の台頭とともに一時は哲学の中心的課題となりました。一方、前者の科学的哲学は、科学をそのまま哲学とする自然主義的・実証主義的な立場や、科学の考えを超えて哲学体系をつくろうとする自然科学的な形而上学と呼ばれるものであり、いずれも自然科学の研究者たちが唱えたものです。こうした学問的な流れが広まっていた時代、本来哲学の研究から出発していた人たちは、次第に哲学史の研究に没頭し、そこから自分の哲学的見解を作り出そうとする傾向が強まりました。つまり、科学的哲学の時代には、哲学史の研究を通じて哲学に入ることが、むしろ正統的な哲学者の取るべき道だと考えられていたのです。ただし「正統」とは、その思想が真理だとか優れているという意味ではなく、単に伝統的な哲学者の流れに属しているということを意味します。哲学史から哲学に入る人たちにもまた二つのタイプがあります。一つは、古来の哲学史を広く見渡し、そこにある論理的な関係を読み取り、そこから哲学の課題や立場を見出そうとするもの。もう一つは、特定の一つか二つの大きな哲学体系に依拠して、その中にある問題や概念を深く掘り下げることで自分の哲学を構築しようとするものです。前者のように、哲学史を一つの統一的な体系と見なして体系的にまとめあげた代表がヘーゲルです。しかし、ヘーゲルの学説が一時的に権威を失ったころには、こうした哲学史の見方も広くは受け入れられなくなり、哲学史を研究する人たちは、細かい事実の検証に集中するようになりました。その結果、全体像をまとめるような試みは避けられ、そこから自分の哲学を引き出そうとする人もほとんどいなくなりました。こうして、哲学史の研究者たちは専門家として哲学史を追求するだけになり、そこから自分の哲学説を構築しようとする人たちは、特定の古代哲学者を師と仰ぎ、自説の材料としました。たとえば、ヘーゲルの後任としてベルリン大学で哲学を教えたトレンデレンブルクがアリストテレスを自説の支柱としたのがその一例です。しかし、こうした方向性も広くは定着せず、多くの哲学研究は哲学史や科学批判にとどまり、それによって自らの学問的良心を満足させるにとどまっていたといえます。これが、19世紀末から20世紀初頭のドイツ哲学界の傾向であり、フランスやイギリスでもほぼ同様で、日本の学界もまた一時はその流れを反映していました。筆者が学生時代に、まだ「哲学」という言葉すらあまり聞いたことのなかったころ、それはちょうど19世紀中頃の思想が主流だった時期でした。その後、ようやく哲学を学び始めたころには、旧時代の思想に強く影響された人たちと、新しい時代の息吹を感じている人たちの考えが入り混じるような時代でした。これは、筆者が学んだ先生方や先輩たちの講義や文章に明確に表れています。そうした中で筆者は、当時の最新の科学理論や研究に触れる機会を得ましたが、それらをまとめて体系にしようとはせず、次第に学んだカント哲学や新カント派の思想に従って、科学原理を批判的に吟味することが哲学の役割だと考えるようになりました。また、古代からの哲学の流れにも(多少東洋思想にも)触れ、その論理的な関係を追求しようとしたものの、ヘーゲルのようにそこから独自の体系を築こうとはせず、また哲学史を専門的に細かく調べる余裕もなかったため、この場面でも「批判哲学」の方法を用い、科学原理と同様に哲学的事実に対しても批判的考察を行い、もし何らかの成果が得られれば良しとし、得られなければ、その考察そのものを学問として記録に残すことで、研究者としての目的を果たそうとしたのでした。これは筆者個人の姿勢というより、19世紀末から20世紀初頭にかけての世界の哲学者たち全体の傾向だったと言っていいでしょう。
二
ところが近年になって、状況は急速に変化してきたように見えます。これまで世界中の大学での哲学講義の内容を見てみると、たいていの場合、哲学史の講義が主要な位置を占め、その次に論理学や認識論の一般講義が必ず含まれており、それらの中であるいは他の専門的な分野で、講師が自身の見解を示すことはあっても、自分の哲学体系そのものを講義の中で述べるというのは比較的少なかったようです。今日においてもベルリン大学などではこの傾向が保たれていますし、フランスやイギリスの大学では主に古代や中世の哲学の研究が進められているようにも見えます。しかしドイツ、特に西部地域の大学では、最近では特定の哲学的問題や立場を講義の中心とすることが少なくないようです。こうした大学では、哲学史の一般講義はあまり重視されておらず、古代の哲学を扱う際にも、それを歴史的にたどるというより、むしろある一つの学派を中心として、自分のものとして使おうとする傾向が強く見られます。このような方法は、哲学史の論理的発展をもとに自分の体系を構築したヘーゲルの弁証法とはまったく異なり、中世スコラ哲学のように、古代哲学の一部をすでに定められた教義の証明に使うような傾向を受け継いでいるといえます。また、研究方法の点でも、自然科学の原理を自分の目的に応じて使おうとした科学的形而上学の姿勢とも似ています。その結果、古代の哲学的著作の解釈においては、かつてのような大まかで要点をつかもうとするような解釈ではなく、個々の用語の解釈や文献的な検証に異常ともいえるほどの細かさで研究が進められるようになりました。そしてこうした考証的解釈は、しばしばある哲学体系の資料として使われるため、純粋に文献学的な関心からだけで行われているとは限りません。この点は、過去および現在におけるある種の形而上学者たちが、自然科学の研究を自分たちの目的に合わせて使っている姿勢と共通しています。そしてまた、ある一つの哲学体系だけを見ていることで、その思想が前後の学説とどのような関係にあるのかを見落とす危険性もあります。例えば、一人の古代哲学者の理論について、何度も「真の解釈」だと称される説が提示されることがあり、それらが互いに正反対でさえあるという状況も珍しくありません。しかしそれによって過去の解釈が無意味だとするのは、歴史的視点を欠いた判断だと言わねばなりません。なぜなら、過去の解釈というものは、古代の哲学者が歴史の中でどのように理解されてきたかという「存在の仕方」でもあったからです。たとえば、アリストテレスによるプラトンの解釈は今日では不正確とされるかもしれません。しかし過去何千年もの間、プラトンはその誤った解釈のかたちで歴史の中に存在していたのです。これを否定するということは、過去の歴史的事実そのものを消してしまうことになります。たとえアリストテレスの哲学が現代において正しく理解されたとしても、中世のスコラ哲学で支持され、近代の初期に批判を受けたアリストテレスの思想を無かったことにはできません。つまり、歴史的な視点から見れば、古い哲学説の解釈にも独自の方法があり得るはずですが、現在主流の方法はそうした歴史的見方とは異なっているようです。現代の哲学研究は、特定の学派や思想体系に集中し、その源流に新たな意義を見出そうとしています。この「源流」を探ることは一見歴史的なようでいて、実際にはその源が現代思想と密接に関わっているために関心を持たれるのです。つまり、その間にある歴史的変化そのものに価値があるのではなく、現在の関心があるからこそ源流が意味を持つのです。そのため、中間の時代の哲学的事実は次第に軽視される傾向があります。たとえば、文学においても、研究の対象は古典文学や古語の使用された近世文学に偏る傾向がありますし、歴史学でも一般的に知られていない地域や時代ばかりが研究対象になりがちです。このような理由から、比較的よく知られていて平凡化した過去数百年の哲学は、専門家の関心を集めなくなったというのもある程度理解できます。しかし、現代の学問風潮の特徴は、過去の未知の事実を同時に現代の思想と結びつけようとするところにあります。この点では、かつてエジプト美術が新時代の彫刻となり、素朴な絵画が純粋なものと評価されたのと同じ傾向だと言えるでしょう。筆者は、このような新しい学問の流れに対して、肯定も否定もするつもりはありません。もちろん、この方法には多くの利点があることも認めざるを得ません。そして現代の学生たちがまず現代の思想家に触れようとするのは、まさに現代哲学が活発であることの証とも言えるでしょう。実際、筆者が哲学を学んでいた時代やその以前の哲学者たちは、言ってみれば哲学を守るために過去の遺産にしがみついていた人たちであり、かろうじてその灯を絶やさなかった功績はあるとしても、新しい体系を作るような情熱や意欲は欠けていました。そうした時代に、歴史研究や科学研究に取り組んでいた人々、あるいは時代の制約に満足できず自分自身で新しい出発をしようとした人々が、果敢に自分の見解を世に問うようになったことで、哲学界に新たな活気が生まれたことは間違いありません。新しい動きは常に、旧来の流れへの反発を伴います。したがって、19世紀末から20世紀初頭にかけて主流だった観念論や認識論的な研究に対して、その反動としての新たな学風が力を持ってきたことも不思議ではありません。最近ベルリン大学に移籍してきたニコライ・ハルトマンが、今春のカント学会で「現代哲学の実在論と存在論への転回」というテーマで議論を呼びかけたのも当然のことです。筆者自身も、現代哲学には実在論的な傾向と、言語論(解釈学)的な傾向の二つがあることを指摘してきました。このようにして、かつて主流だった観念論的な哲学は、今やもはや死に絶えたかのように見えます。これもまた、学問の潮流が変わっていく例であり、そこに善悪を論じようとは思いません。しかし、このような状況においてもなお、哲学史と哲学そのものとの関係について、ある程度は改めて考える余地があるのではないでしょうか。
三
すでに少し示唆したとおり、哲学史の研究には、「純粋に哲学史を研究する立場」と、「哲学研究と連動した哲学史研究」の二つを区別する必要があります。しかし、純粋な哲学史研究であっても、個々の哲学説について文献の考証や文化史的な背景、あるいは学説そのものの意味解釈などに焦点を当てるものは存在します。これらは専門的・部分的研究として成り立つわけですが、もしその研究が一歩進んで、その思想を前後の学説との関係から捉えようとするなら、もはや全体的な意味にまで踏み込まざるを得なくなります。ある一つの哲学説について、それが哲学史上どのような意味を持つのかを考えるためには、まず哲学史とは単なる学説の羅列ではなく、諸説のあいだに論理的な関係が成立し、それらが互いに依存し合って一つの体系をなしているという前提を持たなければなりません。では、偶然に現れたようなそれぞれの学説が、どうして論理的な必然性によって結びついていると言えるのでしょうか。もし哲学史を単なる学説のリストと考えるなら、それは誤りの一覧に過ぎないとも言えるかもしれません。しかし、もし哲学史が何らかの論理的性質を持つとするならば、誤った学説であっても、それが論理的な必然性に基づいて並べられていると考えなければなりません。個々の学説が正しいかどうかは問題ではなく、それらが現代に至るまでの思考の流れの中で、どのように結びついてきたのかという論理的連続性が大事なのです。ただし、学説は実際の「事実」として存在したものであり、論理的関係だけでは説明できない要素があることも忘れてはなりません。たとえば、ギリシャの国情が変わっていれば、アリストテレスのあとに「第二のアリストテレス」が登場していたかもしれません。あるいは、ヘーゲルが19世紀中頃まで活躍していれば、科学と哲学の関係もまた違っていたかもしれません。つまり、哲学史に現れた事実すべてを論理的必然によって説明しようとするなら、「大論理学者」たる神の存在を仮定するか、あるいは「事実こそがそのまま論理である」という特殊な立場を取らなければなりません。しかし、どちらの立場に立つにしても、論理的な発展を妨げる非論理的な要素の存在も、説明できなければならないのです。弁証法は「あるもの」と「ないもの」とを同時に存在させうる理論ですが、弁証法が成り立つためには、それが同時に「非弁証法的要素」も取り込むものでなければなりません。このようにして、すべての論理を包み込む絶対的な論理の存在を前提とすれば、哲学史全体が「一つの哲学体系」そのものになるということも理論的には言えるかもしれません。しかし、これではすでに一つの哲学説を前提にしてしまっており、それを認めた瞬間に、その枠組みから抜け出すことはできなくなります。その哲学説がたまたま自分の考えと一致していればよいですが、そうでなければ、自分の立場をその哲学説に合わせるか、逆にその哲学史観を変えてしまうしかなくなります。前者であれば自分の哲学史の見方を修正することになり、後者であれば自分自身の哲学が存在できなくなります。そして実際に、すべての人が同じ学説に立てるわけではありません。ですから、「哲学史=哲学体系」と主張することと、自分がある特定の哲学的立場にあることとは、たいてい矛盾を引き起こします。そして特定の立場に立って古代の思想を見ようとする者は、結局その古代思想の「哲学史的な意味」を発見することができなくなります。これはある意味当然の結果ですが、同時にその古代思想はただ自分の説の脚注や補強材料としてしか存在しなくなります。すると、同じ古代の思想がさまざまに解釈されるようになり、もはや「同じ思想」としての客観的な実体すら失われてしまいます。つまり、古代の学説は客観的なものではなく、主観によって構成されたものになってしまうわけです。このような結果を見ると、「その論理に誤りがあるのではないか」と思う人がいるかもしれません。しかし、私たちはここで論理を無理やり否定しようとしているわけではなく、むしろ「古代の思想に唯一絶対の解釈など存在しない」ということを率直に認めたいのです。そして同時に、「主観的な見方」とは、よく言われるように「いい加減で勝手なもの」などではなく、多くの人が持ちうる正当な立場であることも示しておきたいのです。すでに、古代の哲学が客観的な事実として存在していても、さまざまな主観的解釈が可能だということが認められるなら、今度はそれらの諸学説が論理的につながって「歴史」になるということ自体も、実は一つの主観的構成の結果ではないかと考えることもできるでしょう。歴史的な出来事は、事実としては「客観的」であり、それらが相互につながっているのもまた客観的だとされます。しかし、それが「論理的関係にある」と見るのは、普通の意味での客観ではなく、「主観的見方」によると考えたほうが妥当です。歴史的な出来事には多くの偶然が含まれています。そこからある出来事を選んで、それらのあいだに「論理的な必然性」を見出すのは、主観の働きによるものです。つまり、歴史が歴史として成立するには、最終的には主観的な構成が不可欠なのです。もっとも、ここで言う「主観」は、勝手気ままな個人の好みではありません。これはいわゆる「先験的主観(経験の前にある構造としての主観)」であり、歴史が歴史として意味を持つのは、この先験的主観が働いているからです。この「枠組み」があるからこそ、古代の哲学も哲学史の中に位置づけられます。つまり、哲学史が論理的なつながりを持っているとされるのは、ある一つの哲学説から決まる「客観的事実」ではなく、どのような学説にも結びつけられるように、主観的に構成されているということです。言い換えれば、哲学史も古代の学説も、現代のある見方から離れては、ただのバラバラな事実の集まりに過ぎません。しかし一度、何らかの学説という「立場」に立ってそれらを構成すれば、そこに「目的的な関係」=目的に向かう連続性が見えてくるのです。立場が変われば、それに応じて哲学史も変わります。論理的関係の中身も変わりますが、学説同士の関係が、現在の学説へとつながる「意味ある並び」として再構成される限り、「目的的関係」は常に存在します。このようにして、古代の哲学説の関係は、完全に現代の立場に基づく主観的な構成物となります。ただしこれは「関係」に関する話であり、古代の学説という「素材」そのものは、あくまで客観的事実であり、勝手に変えていいものではありません。したがって、古代の哲学をできるだけ当時のまま再現しようとすることこそが、主観的構成の目標なのです。古代哲学を主観的に解釈するというのは、それを自分に都合よく変えることではありません。主観の構成は「形式」に限られるので、「内容(事実)」についてはあくまで客観的な吟味が必要です。このように、「哲学史の論理的関係」を主観的構成と見る立場は、哲学史を事実として研究する態度と矛盾せず、むしろそれによって初めて哲学史は成り立つのだと言えます。したがって、現代の学説を軸にして古代の思想を参照するにしても、最終的にはそれを哲学史の中で解釈する必要が生まれます。そのときに、哲学史全体を「一つの体系」として客観的に説明しようとすれば、「哲学史=哲学」であるという見方と、自分自身の哲学とのあいだに矛盾が生じます。しかし、哲学史の論理的関係を「主観的構成」だと見れば、哲学史=哲学という立場を前提にしながら、自分自身の哲学とも自然に結びつけることができるのです。こうして、哲学史の研究は、独立した学問としての性格を保ちながら、同時に哲学体系と結びつけることが可能になります。もし今の学問の流れの中で、哲学史を無視した哲学研究に違和感があるならば、ここで述べたような見方を通じて、自分の哲学研究と哲学史研究とをうまく結びつけることができるはずです。哲学研究のもう一つの方法として、科学との関係によるものもありますが、これも今日では新たな方向に展開しています。フランスの学界における科学哲学の意味は、これまでの科学批判とは少し異なっているようです。ただし、この違いは方法論というよりも、むしろ科学そのものの内容の変化に起因するものでしょう。この点についてはここでは省略し、今回は哲学史と哲学との関係について、学問の流れの変化を考察し、それを自分の意見に引き寄せて述べ、私自身が経験し、また影響を受けてきた先人たちへの敬意を込めた記念の一文としたいと思います。